東京高等裁判所 昭和49年(う)937号 判決 1974年8月01日
被告人 竹下重男
主文
本件各控訴を棄却する。
理由
各控訴の趣意は、検察官北村久彌、弁護人高山幸夫提出の各控訴趣意書記載のとおりであるから、これらを引用する。
検察官の控訴趣意第一および弁護人の控訴趣意(いずれも事実誤認、法令適用の誤り)について。
各所論は、要するに、原判決が被告人の本件殺害行為を過剰防衛にあたると認定したのに対し、これを弁護人は正当防衛行為であると論じ、検察官は過剰防衛行為にもあたらないと主張するものである。しかし、原判決のかかげる証拠を総合すれば、原判示事実を十分に認めることができ、各所論にかんがみ記録を精査し、かつ当審における事実取調の結果を参酌しても、原判決には、各所論のような事実誤認およびこれを前提とする法令の適用の誤りがあるとは考えられない。以下その理由を説明する。
被告人の行為は、当時の客観的状況に照らすと、刑法三六条所定の「正当防衛」の要件を備えており、単に防衛の程度をこえたにすぎないものと認められる。まず本件については、(イ)被害者はかねて酒くせが悪く、酔つてはしばしば乱暴な振舞いに出、警察に保護されたり、精神病院に入れられたり、自宅に放火して罪に問われたりしたことがあること、(ロ)また被害者は、前刑を受けて出所後、昭和四〇年ころ実家に帰つてからもこの態度が改まらず、これが原因で間もなく被告人は母親とともに別居するに至つたが、この間同居中の父親は、身の危険を感じて外泊することさえ珍しくなかつたこと、(ハ)これに反し、被告人は温厚な性格で、これらの事情を聞知し、被害者の態度を憂え恐れてはいたものの、直接乱暴された経験はなく、被害者に恨みをいだくとか、進んで被害者をたしなめようとする気持はなかつたと思われること、(ニ)本件当日も深夜被害者が酒によつて被告人方に押しかけてきて、前の路上で大声をあげて騒いだので、被告人は近所迷惑をおもんばかるとともに、母親に乱暴されてはという懸念もあつて、パジヤマ姿のまま表にとび出し、先に立つて犯行現場附近までいつたが、その間別に興奮あるいは憤慨している様子はなかつたこと、(ホ)現場附近で被害者が田んぼの中にとび込み、被告人にむかつて一対一で殺すか殺されるかやろうなどとどなり被告人がとりあわないでいると、いきなり躍りかかつてきてパジヤマの襟首をつかみ、ぼたんがちぎれ落ちるほど強く頸部をしめつけてきたこと、(ヘ)これに驚きあわてた被告人が、とつさに両手を交叉させる形で被害者のランニングシヤツの両襟をにぎつてその頸部を強く締めかえす挙に出たこと等の状況が注目される。これらの状況に徴すると、被害者の行為は、被告人の不意を突いた全く一方的な攻撃で、被告人の生命・身体に対する急迫不正の侵害というほかなく、これに対する被告人の反撃は、被害者の締めつけが突然でしかも強く、その手を振りほどくことが容易でなかつたとみられること、争いをとめようとした父親が被害者に蹴とばされ、てん倒したこと、傍らに居合わせた他の二人も、これに対し施す術がなかつたこと等の状況に照らし、他の方法によることが著しく困難な、自己防衛のためのやむをえない行為であつたと認めるのが相当である(このことは、被告人が、止めに入つた父親や兄に対し、「俺が手をはなせば俺がやられてしまう」といつたこと、捜査段階以来、被告人が終始一貫して防衛の意思であつたと述べていること等からもうかがわれる)。いかに温厚な被告人でも、殺すなどといわれ、いきなり襟首をつかまれ締めつけられた際には、興奮し憤慨したであろうと想像されるが、かような事情は、必ずしも被告人が防衛の意思で防衛的行為に出たことを否定することにはならない。その後双方が、締め合いその場に倒れたのち、被告人が被害者の上になりながらなおもその手をゆるめず、相手が死ぬかも知れないと知りながら締めつづけ、これを窒息死するに至らせたことは、原判示のとおりと認められる。この状況は、被害者の頸部にはつきりした緊縛痕があるのに、被告人の側にそのような痕跡がないこと、互いに締め合いはじめてから、それまで多弁だつた被害者が何もいわなくなつたのに、被告人の方では前記のとおり若干声を発していること等に徴し、被害者の攻撃力が相当減退し、被告人がかなり優勢な立場にあつたことを推認させるに十分である。したがつてこの段階では、客観的には、被告人が被害者の手を振りほどいて逃れることもそれほど困難でなく、被告人が締めつづけた行為は、明らかに防衛に必要かつ相当の程度をこえていたものといわなければならない。しかし、このような事情があるからといつて、倒れたのちの行為をその前の行為と截然と区別し、全然防衛的なものでなかつたとみること、いわんや、被告人の行為は最初から防衛的なものでなかつたと断ずることはできない。なぜなら被告人の行為は、緊迫した事態のもとで前後数分間という短時間に行われた一連のもので、これを全体的に観察しなくてはそのもつ意味を正しく把握・理解することは困難だからである。このような観点から考えると、被告人が被害者のランニングシヤツの両襟をつかんで締めつけはじめた行為は、主観的にはもちろん客観的にも、急迫不正の侵害に対する、自己防衛のためのやむをえない行為と認められるが、双方が取つ組み合つたまま倒れ、状況に微妙な変化があらわれたのちも、被告人のこの主観的意思に格別の変化があつたとは認めがたく、以後の行為を防衛的なものでないとみるのは相当でない。ただその際の被告人の行為は、前記のとおり、客観的には、すでに防衛に必要かつ相当な程度をこえていたと認めるほかなく、これは驚愕、興奮、恐怖等のため、事態の変化を冷静に見、これに対応する適切な措置に出る心の余裕を失つていたことによるものと思われる。以上の理由で各論旨は、いずれも採用することができない。
検察官の控訴趣意第二(量刑不当)について。
本件犯行の罪質、結果の重大性などにかんがみると、原判決の量刑が軽きに失するという所論の趣旨も十分理解できる。しかし、被告人は温厚な真面目な人柄で、前科前歴は全くなく、本件も被害者の突然の一方的な攻撃に誘発されてやむなく行われたもので、その死という重大な結果まで望んでいたものでないとみられること、しかもなお現在では、深く自己の軽卒さを反省し被害者の冥福を祈る気持になつていること、先に明かにした本件犯行に至るまでの経緯、犯行の態様等を考えると、被告人に対し刑を免除した原判決も、不当に軽いとまではいえない。論旨は理由がない。
そこで、刑訴法三九六条に則り、主文のとおり判決する。